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「ベルフラワー」
監督/エヴァン・グローデル
出演/エヴァン・グローデル
ジェシー・ワイズマン
タイラー・ドーソン
レベッカ・ブランデス
それ程大して忙しかった訳でもなく、たまに自宅で映画を観たりもしていたのだが感想文を書くのが非常に面倒くさくなってしまった事と、何と言ってもやはり昨年デビュー20周年のアニバーサリーイヤーであった川本真琴氏の音楽活動を支援する事に意識を集中していた為か?しばらくブログへの投稿をさぼっていて気付いたら一年以上過ぎてしまった。はっきり言って別どうしても書きたい事がある訳では無いので、このままやめても誰も気に止めないとは思うのですが、自称こまめな性格の私は途中でやめるのもどうかなと思い、たまには投稿してみる事に致しました。
この映画の存在については全く何も知りませんでしたが、別の映画(裏切りのサーカス/ゲイリー.オールドマン主演/イギリス.フランス.ドイツ合作のスパイ映画)を視た時の予告編で少し興味を持ち、借りる事にしたのだった。
予告篇では映画の内容等を示す様な事は特に描かれてはいなかったが、映像には何とも言えない妙な雰囲気が漂っていて、映画「マッドマックス2」に出てくるヒューマンガスという悪役のボスについての台詞が印象的で「全世界のマッドマックスファンに捧げる」とキャプションが示されていた。
私は別にマッドマックスファンでは無いがシリーズの1作目と2作目は子供の頃に映画館で視ていて、派手な暴力シーンやカーチェイス等にはそれなりに魅了されていたし、主役
のメルギブソンのワイルドで渇いた正義感に対して、その年齢の男子としては少々の憧れの様な気持ちを持ってはいた。
ちなみに3作目は歌手のティナ.ターナーが出演していて、レンタルビデオで借りたのを当時の恋人と、こたつの中で身体を寄せ合って鑑賞していたのだが、だらだらと観て居るうちにそのまま、おセックスが始まってしまい非常に気持が良かったのだったが映画の内容については全く覚えていません。
つい数年前、20何年ぶりかにシリーズの最新作が公開されたタイミングでTSUTAYAでは
マッドマックスシリーズのキャンペーンがやっていて大々的に宣伝されていたので、ついあらためてシリーズ3部作をすべて借りて観てしまったのだが、最も面白かったのはやはり漫画「北斗の拳」のモデルにもなっていたシリーズ2で、スピード感に巻き込まれながら、残虐なシーンにハラハラさせられて、適役のモヒカン刈りの暴走族集団は非常に恐かった。悪役のキャラもかなり立っていて特にボス格のヒューマンガスはアイスホッケーの面を被り筋肉ムキムキでボンテージファッションといった物凄い出立ちで超不気味な存在感を醸しだしていた。
今回借りて観たこの「ベルフラワー」という映画はもしかしたらマッドマックス2の影の
主役であるヒューマンガスにスポットを当てた物語で、もしかしたら彼が凶悪な怪物になる以前の話(映画の設定では世紀末、核戦争の後の退廃した暴力が支配する恐怖の時代であるから核戦争が起きる前の時代で、ヒューマンガスが普通の若者だった頃の事とか)であったらなかなか面白そうだと思って借りてしまったのだ。
しかし実際映画を観てみると、そういった私の直感的妄想は完全な深読みだったようで、私が思っていた様なお話では全然なくて、アメリカの田舎町の仕事もしていないヒューマンガスオタクな若者達の、どうでもよく退廃的な心情や妄想を、やや幻想的に撮影した正直今一つ良くわからないお話であった。
ハリウッド、ベルフラワー通り……『マッド・マックス2』のカリスマ的悪役ヒューマンガスを崇拝する親友同士のウッドロー(エヴァン・グローデル)とエイデン(タイラー・ドーソン)。彼らはロクに働きもせず昼間から酒を浴び、世界滅亡後“マザー・メデューサ団”として大暴れすべく日々火炎放射器とモンスター・カー“メデューサ号”の製造にいそしんでいた。
そんなとき二人は酒場でミリー(ジェシー・ワイズマン)とその親友コートニー(レベッカ・ブランデス)に出会う。ウッドローとミリーはコオロギ早食いコンテストで意気投合し、初デートからテキサスまで旅するまで至る。ウッドローはミリーに「恋人になってほしい」と告白するが、彼女は「きっとあなたを傷つける」と曖昧な返事をする。しかし帰ってきてコートニーの誕生日パーティから帰った朝、二人は初めて愛を交わす。ウッドローとミリー、そしてエイデンとコートニーの恋人同士は幸福な時を過ごしつつ、親友同士は火炎放射器と車を着々と作り上げていった。
しかしある日ウッドローはミリーが同居人のマイク(ヴィンセント・グラショー)とセックスしている場面を目撃してしまう……ショックのあまりバイクで逃げ去るウッドローは車にはねられ大けがを負う。体の傷は癒えても心はズタズタのままのウッドローはエイデンの支えや彼と別れたコートニーとの関係もむなしく、ミリーへのすさまじい未練を暴走させ妄想の世界に迷い込む……(映画COMより抜粋)
予告篇では映画の内容等を示す様な事は特に描かれてはいなかったが、映像には何とも言えない妙な雰囲気が漂っていて、映画「マッドマックス2」に出てくるヒューマンガスという悪役のボスについての台詞が印象的で「全世界のマッドマックスファンに捧げる」とキャプションが示されていた。
私は別にマッドマックスファンでは無いがシリーズの1作目と2作目は子供の頃に映画館で視ていて、派手な暴力シーンやカーチェイス等にはそれなりに魅了されていたし、主役
のメルギブソンのワイルドで渇いた正義感に対して、その年齢の男子としては少々の憧れの様な気持ちを持ってはいた。
ちなみに3作目は歌手のティナ.ターナーが出演していて、レンタルビデオで借りたのを当時の恋人と、こたつの中で身体を寄せ合って鑑賞していたのだが、だらだらと観て居るうちにそのまま、おセックスが始まってしまい非常に気持が良かったのだったが映画の内容については全く覚えていません。
つい数年前、20何年ぶりかにシリーズの最新作が公開されたタイミングでTSUTAYAでは
マッドマックスシリーズのキャンペーンがやっていて大々的に宣伝されていたので、ついあらためてシリーズ3部作をすべて借りて観てしまったのだが、最も面白かったのはやはり漫画「北斗の拳」のモデルにもなっていたシリーズ2で、スピード感に巻き込まれながら、残虐なシーンにハラハラさせられて、適役のモヒカン刈りの暴走族集団は非常に恐かった。悪役のキャラもかなり立っていて特にボス格のヒューマンガスはアイスホッケーの面を被り筋肉ムキムキでボンテージファッションといった物凄い出立ちで超不気味な存在感を醸しだしていた。
今回借りて観たこの「ベルフラワー」という映画はもしかしたらマッドマックス2の影の
主役であるヒューマンガスにスポットを当てた物語で、もしかしたら彼が凶悪な怪物になる以前の話(映画の設定では世紀末、核戦争の後の退廃した暴力が支配する恐怖の時代であるから核戦争が起きる前の時代で、ヒューマンガスが普通の若者だった頃の事とか)であったらなかなか面白そうだと思って借りてしまったのだ。
しかし実際映画を観てみると、そういった私の直感的妄想は完全な深読みだったようで、私が思っていた様なお話では全然なくて、アメリカの田舎町の仕事もしていないヒューマンガスオタクな若者達の、どうでもよく退廃的な心情や妄想を、やや幻想的に撮影した正直今一つ良くわからないお話であった。
ハリウッド、ベルフラワー通り……『マッド・マックス2』のカリスマ的悪役ヒューマンガスを崇拝する親友同士のウッドロー(エヴァン・グローデル)とエイデン(タイラー・ドーソン)。彼らはロクに働きもせず昼間から酒を浴び、世界滅亡後“マザー・メデューサ団”として大暴れすべく日々火炎放射器とモンスター・カー“メデューサ号”の製造にいそしんでいた。
そんなとき二人は酒場でミリー(ジェシー・ワイズマン)とその親友コートニー(レベッカ・ブランデス)に出会う。ウッドローとミリーはコオロギ早食いコンテストで意気投合し、初デートからテキサスまで旅するまで至る。ウッドローはミリーに「恋人になってほしい」と告白するが、彼女は「きっとあなたを傷つける」と曖昧な返事をする。しかし帰ってきてコートニーの誕生日パーティから帰った朝、二人は初めて愛を交わす。ウッドローとミリー、そしてエイデンとコートニーの恋人同士は幸福な時を過ごしつつ、親友同士は火炎放射器と車を着々と作り上げていった。
しかしある日ウッドローはミリーが同居人のマイク(ヴィンセント・グラショー)とセックスしている場面を目撃してしまう……ショックのあまりバイクで逃げ去るウッドローは車にはねられ大けがを負う。体の傷は癒えても心はズタズタのままのウッドローはエイデンの支えや彼と別れたコートニーとの関係もむなしく、ミリーへのすさまじい未練を暴走させ妄想の世界に迷い込む……(映画COMより抜粋)
要するに女にフラレてトチ狂った人のお話である。
この映画を観終わった後、私が強く想ったのは映画が面白いとかつまらないといった感想の以前に、一体誰が何の目的でこのような非常に個人的というか、誰から観てもどうでも良さそうな社会性皆無の話をわざわざ映画にしたのだろうか?
という疑問であった。
日本での公開当時は渋谷の単館系でパンク系サブカルチャーやホラー映画色を強調した「シアターN」という映画館等でそれなりに好評だったらしい。
当時この映画を観て少しでも心惹かれた人は多分、自主制作ならではの荒削りで無骨な手作り感や微妙にカルトな登場人物達の行き場無い心情等にいくらか同調したのかも知れない。
確かに自分が好きな女性にフラれたからというだけの理由で、全世界の崩壊を目論む人の心情は全く理解出来なくも無いかも。
どうやら実際、監督/主演のエヴァン.グローデルは自身が現実で経験した失恋体験をどうしても映画化したくて、シナリオを何年もかけて書き上げ、予算を自分で捻出してこの映画を制作したのだそうな。
全てのケースに当て嵌まる訳では決して無いが、男性が持つ欲望の3題要素として1モテたい。2威張りたい。3金欲しい。といった願望がすべての社会的努力の根底に潜んでいるのだと私は思う。それは誰にでも少しは共通する価値観であり、当たり前のように経済資本主義の中では、3の金欲しい。が根強く、ほとんどの人の価値を供用している。
しかし商業や職業的にだけでは無く、自分の心の葛藤等を二次的にでも深く、大勢の人に伝える事を目標とする表現者の、やや複雑な動機としてはその全てが満たされてしまうと
最も大切な筈の衝動を見失ってしまうケースも全く無くはないのだろう。
勿論、元々大金持ちで、威張らなくても大勢の人に慕われて、特別な屈折等は無くとも女性にはいつもモテモテなのにハングリーでストイックでそれでいてスケールの大きな表現を作り上げられる方々も沢山いらっしゃるのだが、すべてをバランス良く保てる事よりも、取り様によっては大きくいびつな欲求が表現を特化させ、受ける人の心に深く強く浸透させる事も多々あるのでは無いだろうか?
個人的な優先順位としてはまず一位は2の威張りたい(ちやほやされたい、賞賛されたい等)二位は3の金欲しい(制作費や、日常生活での苦悩あるが故)で1のモテたいというのは近年現実性を全く帯びていないせいか?私の中では二の次、三の次ではある。
だが侮れないのは、バランス良く無難な自尊心を突然木っ端微塵に打ち砕く様な恋愛感情や性的衝動はある時、生きる意味をもっと複雑に若がえらせてくれたりもする。
その場合の多くは得る事より失う事の方が大きく心の比重を持っているのだと思う。
「有名になって俺をフッた女を見返したい」「これを成功させたら彼女ができるかも?」「特に理由は無いがとにかくセックスがしたい」等の屈折した満たされない想いが強い衝動となった時、突如として失恋経験で心が捻曲がる位傷ついたり、女性にまったく相手にされず日々悶々としている男性達の共感を得る事が出来たりもするのではないだろうか?
私はそれを『超童貞力』と名付けた。根底にはヒロイズムが見え隠れしている。要は「男のロマン」という言葉である。
現代社会では死語であり、心理学ではマザーコンプレックスの裏返しとして検証されているが、完全にその価値観が無くなってしまった訳ではない。
女性にとっても操り易いし、ある意味ではカワイイのかも知れない。押しつけられたらたまったもんじゃないんだろうが,,,,
話は映画から大きくそれた。
つまりこの映画は監督/主演/製作のエヴァン、グローデル氏が失恋による心の傷を回復させるために自ら作り上げられた、自称魂の大傑作映画なのだった。
しかも驚く事に、主演女優のジェシー、ワイズマンは実際エヴァンと以前交際していた相手で彼女との失恋で負った屈折と狂気がこの映画のすべての主題となっているというのだから唖然とさせられる。
恋人にフラレてどうしようも無く落ち込んでしまい、何とかその状態から抜け出そうと気持ちを映画製作に昇華させようというのは何となくはわかる。
だが実際の失恋相手を女優に使って物語を再構築するという発想はあまりにも自己の欲求
に徹底し過ぎではないだろうか?(女優が魅力的に映っていればそうは思わないが、そもそも引っかかる部分でもあった為、)しかし元恋人のジェシー、ワイズマンは元々売れない女優でエヴァン、グローデルも映画作家志望でハリウッドに出てきたという経緯を辿ると、二人の関係が旨くいっていた時期には「いつか君を主演で映画を作りたい」とか言っていた可能性も充分にあり得る話な訳で、別れた後、皮肉にも叶わなかった想いが物語の題材に成ってではあるが、あの時誓った夢を今はもう恋人では無い彼女と一緒に作って、心の傷が少しでも癒えて、しかもその作品が一応他国にも発信され、日本のレンタル店でDVD化された物が賞賛された訳ではないにしても、元々興味無かった人に観てもらえたのであるから、それはある意味凄い事ではないだろうか。
私がもし彼や彼女の友達とかだったら、ちょっとした感動の物語なのかも知れませんね?
残念ながらストーリーの詰めの甘さと、そもそも感情移入出来ない主題のせいか?この映画にも登場人物達にもあまりのめり込む事は出来ないままではあったのだが、
監督自身がやはり自作した、特殊なカメラに依って映された、静かな田舎町の強く照りつける太陽のギラギラした日差しの中で、登場人物達が少しずつ狂っていく様は何処か、ずいぶん懐かしい景色であった様な気持ちにさせてはくれたのでした。
まあはっきりいって面白かった訳でもない映画だから特にお進めも致しませんが。
本当は私はこんな映画の事ではなくて「川本真琴withゴロニャンズ」や昨年末久しぶりにメジャーレーベルから発売されたオリジナルカバーアルバム「ふとしたことです」今年になって沖縄、福岡、仙台、札幌で開催されたライブツアー「惑星」について、理解し合える人達と熱く語り合いたいものです。
あと今年1月31日に東京、十條の[cinecafe soto]で行われた川本さんんの特別イベント「ひとりカンヌ映画際」〜デビュー20周年記念☆総集編についてもですね。♡
ではまた。 ☆
この映画を観終わった後、私が強く想ったのは映画が面白いとかつまらないといった感想の以前に、一体誰が何の目的でこのような非常に個人的というか、誰から観てもどうでも良さそうな社会性皆無の話をわざわざ映画にしたのだろうか?
という疑問であった。
日本での公開当時は渋谷の単館系でパンク系サブカルチャーやホラー映画色を強調した「シアターN」という映画館等でそれなりに好評だったらしい。
当時この映画を観て少しでも心惹かれた人は多分、自主制作ならではの荒削りで無骨な手作り感や微妙にカルトな登場人物達の行き場無い心情等にいくらか同調したのかも知れない。
確かに自分が好きな女性にフラれたからというだけの理由で、全世界の崩壊を目論む人の心情は全く理解出来なくも無いかも。
どうやら実際、監督/主演のエヴァン.グローデルは自身が現実で経験した失恋体験をどうしても映画化したくて、シナリオを何年もかけて書き上げ、予算を自分で捻出してこの映画を制作したのだそうな。
全てのケースに当て嵌まる訳では決して無いが、男性が持つ欲望の3題要素として1モテたい。2威張りたい。3金欲しい。といった願望がすべての社会的努力の根底に潜んでいるのだと私は思う。それは誰にでも少しは共通する価値観であり、当たり前のように経済資本主義の中では、3の金欲しい。が根強く、ほとんどの人の価値を供用している。
しかし商業や職業的にだけでは無く、自分の心の葛藤等を二次的にでも深く、大勢の人に伝える事を目標とする表現者の、やや複雑な動機としてはその全てが満たされてしまうと
最も大切な筈の衝動を見失ってしまうケースも全く無くはないのだろう。
勿論、元々大金持ちで、威張らなくても大勢の人に慕われて、特別な屈折等は無くとも女性にはいつもモテモテなのにハングリーでストイックでそれでいてスケールの大きな表現を作り上げられる方々も沢山いらっしゃるのだが、すべてをバランス良く保てる事よりも、取り様によっては大きくいびつな欲求が表現を特化させ、受ける人の心に深く強く浸透させる事も多々あるのでは無いだろうか?
個人的な優先順位としてはまず一位は2の威張りたい(ちやほやされたい、賞賛されたい等)二位は3の金欲しい(制作費や、日常生活での苦悩あるが故)で1のモテたいというのは近年現実性を全く帯びていないせいか?私の中では二の次、三の次ではある。
だが侮れないのは、バランス良く無難な自尊心を突然木っ端微塵に打ち砕く様な恋愛感情や性的衝動はある時、生きる意味をもっと複雑に若がえらせてくれたりもする。
その場合の多くは得る事より失う事の方が大きく心の比重を持っているのだと思う。
「有名になって俺をフッた女を見返したい」「これを成功させたら彼女ができるかも?」「特に理由は無いがとにかくセックスがしたい」等の屈折した満たされない想いが強い衝動となった時、突如として失恋経験で心が捻曲がる位傷ついたり、女性にまったく相手にされず日々悶々としている男性達の共感を得る事が出来たりもするのではないだろうか?
私はそれを『超童貞力』と名付けた。根底にはヒロイズムが見え隠れしている。要は「男のロマン」という言葉である。
現代社会では死語であり、心理学ではマザーコンプレックスの裏返しとして検証されているが、完全にその価値観が無くなってしまった訳ではない。
女性にとっても操り易いし、ある意味ではカワイイのかも知れない。押しつけられたらたまったもんじゃないんだろうが,,,,
話は映画から大きくそれた。
つまりこの映画は監督/主演/製作のエヴァン、グローデル氏が失恋による心の傷を回復させるために自ら作り上げられた、自称魂の大傑作映画なのだった。
しかも驚く事に、主演女優のジェシー、ワイズマンは実際エヴァンと以前交際していた相手で彼女との失恋で負った屈折と狂気がこの映画のすべての主題となっているというのだから唖然とさせられる。
恋人にフラレてどうしようも無く落ち込んでしまい、何とかその状態から抜け出そうと気持ちを映画製作に昇華させようというのは何となくはわかる。
だが実際の失恋相手を女優に使って物語を再構築するという発想はあまりにも自己の欲求
に徹底し過ぎではないだろうか?(女優が魅力的に映っていればそうは思わないが、そもそも引っかかる部分でもあった為、)しかし元恋人のジェシー、ワイズマンは元々売れない女優でエヴァン、グローデルも映画作家志望でハリウッドに出てきたという経緯を辿ると、二人の関係が旨くいっていた時期には「いつか君を主演で映画を作りたい」とか言っていた可能性も充分にあり得る話な訳で、別れた後、皮肉にも叶わなかった想いが物語の題材に成ってではあるが、あの時誓った夢を今はもう恋人では無い彼女と一緒に作って、心の傷が少しでも癒えて、しかもその作品が一応他国にも発信され、日本のレンタル店でDVD化された物が賞賛された訳ではないにしても、元々興味無かった人に観てもらえたのであるから、それはある意味凄い事ではないだろうか。
私がもし彼や彼女の友達とかだったら、ちょっとした感動の物語なのかも知れませんね?
残念ながらストーリーの詰めの甘さと、そもそも感情移入出来ない主題のせいか?この映画にも登場人物達にもあまりのめり込む事は出来ないままではあったのだが、
監督自身がやはり自作した、特殊なカメラに依って映された、静かな田舎町の強く照りつける太陽のギラギラした日差しの中で、登場人物達が少しずつ狂っていく様は何処か、ずいぶん懐かしい景色であった様な気持ちにさせてはくれたのでした。
まあはっきりいって面白かった訳でもない映画だから特にお進めも致しませんが。
本当は私はこんな映画の事ではなくて「川本真琴withゴロニャンズ」や昨年末久しぶりにメジャーレーベルから発売されたオリジナルカバーアルバム「ふとしたことです」今年になって沖縄、福岡、仙台、札幌で開催されたライブツアー「惑星」について、理解し合える人達と熱く語り合いたいものです。
あと今年1月31日に東京、十條の[cinecafe soto]で行われた川本さんんの特別イベント「ひとりカンヌ映画際」〜デビュー20周年記念☆総集編についてもですね。♡
ではまた。 ☆
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