2015年8月28日金曜日

『はると先生の夢色TSUTAYA日記』9

(c)ジェネオン・ユニバーサル
4月16日

『軽蔑』1963年

監督/ジャン=リュックゴダール
原作/アルベルトモラヴィア
出演/ブリジットバルドー
   ミシェルピコリ
   ジャックパランス
   ジョルジアモル
   フィリッツラング


ゴダールの映画は過去に何作かみたことがあって、だからといって当然理解している訳ではなく「良くわからないがテンポがいい」とか「色彩が特徴的で女優が皆綺麗で魅力的である」とか「台詞が詩的で奥が深そうでなんかカッコいい気がする。」と言った程度の感想しか俗でミーハーな感性の私は持ち合わせてはいない。だいたい私が感動し強い影響を受けるのは自分自身の世界感を投影し移入しやすい物語や主人公がそのほとんどなのだが、たまに何だか難しくてよくわからないが集中せず考え事をしながらだらだら映画をみるような時間もわりと好きでそういう気分を得たい時は自分にとって難解というか特別興味あるわけでも無い難しそうな映画をみたりすることがある。結局は面白いのかどうかも分からないままなのだが、自分が少し頭が良くなったような気になれるからだ。

ゴダールの映画は哲学や政治的な意味合いも多く含まれてはいるが、それらも結局は1960年代〜70年代に多くの表現者達が危惧して声をあげていた様な主張ばかりである。と昔何かの本で読んだ事があるけど、今現在表現の価値は、どのような主張をするかでは無く、どのように表現を経済消費物として価値づけるか?といったことに念頭が置かれているような気がしてならない。(もう完全にそのような世界にになってしまったのだ。)そういう事にはとっくにうんざりだが勿論そんなことを偉そうに言っても、私自身が世界の中で起きている事をすべて把握している訳ではないし、仮に自分なりの考えや主張が少しなりともあったとしても、それと引き換えに自分の人生の社会的安定を諦められる程の覚悟は持っていない。気持悪いものは気持悪いと思うが、その気持悪いものが自分に都合良く向けばたぶん許せてしまう。それほど大きな欲望もたぶん生まれつき持ち合わせてはいないのだろう。そもそもチヤホやされたいとかイイ人と思われたいとかその程度の人間なのだ..私は。

話は大きく逸れたが、私の中でのゴダール評は「勝手にしやがれ」等の初期の作品は斬新でお洒落で観やすく今観ても面白いといえばおもしろいけど、その後あまりにも注目され多くの人に影響を与え過ぎてしまったせいか?きっといろいろと難しく考え過ぎる質で、なおかつアイディアもサービス精神も豊富で、したたかさも圧倒的に持ち合わせていたのだろうが、別に作らなくてもいいような作品も多く残している様に思う。当時の社会的価値観を独自の変化球でコミットした映画史に残る凄い人だが女好きで、頭の良すぎる気難しいおっさんのよく分からない独り言..といった印象を私に決定付けたのは、わりと最近の「ソシアリスム」でこれは沖縄の映画館で観たのだが半分位観てなんかばかばかしくなり寝てしまいました。

私が観たゴダール映画は、面白い作品と良くわからないけどまた観てみたいと思った(でも結局その後ほとんどみていない)作品と難しかったからというより、単につまらなくて只画面を目で追っただけの作品に分類されるが、その中でこの「軽蔑」はどうだったか?というと、結構分かり易く面白かったというのが私の感想であった。



で映画の内容はというと
女優カミーユ・ジャヴァル(ブリジット・バルドー)と脚本家のポール・ジャヴァル(ミシェル・ピッコリ)は夫婦である。夜、ふたりのアパルトマンのベッドルームでの会話は無意味、でもそれは夫婦らしいものであった。
翌朝、ポールはアメリカから来た映画プロデューサー、ジェレミー・プロコシュ(ジャック・パランス)と会った。ジェレミーはフリッツ・ラング(本 人)が現在撮影中の映画『オデュッセイア』があまりにも難解であるとし、この脚本のリライトをポールに発注してきた。昼になって、カミーユが現れ、夫妻は ジェレミーに自宅に誘われた。自宅でジェレミーは、カミーユをカプリ島でのロケーション撮影に来ないかと言う。それは夫が決めること、とカミーユは答え た。
アパルトマンに帰った後のポールとカミーユは、なぜかしっくりこない。夜、ふたりは別々の部屋で寝ることになる。ジェレミーから再び、カミーユへの ロケのオファーの電話があった。ポールはポールで、本人次第だと答えてしまう。電話の後で激したカミーユは、ポールを軽蔑すると言い放つ。ジェレミーの誘 いで映画館に行った後、カミーユはオファーを承諾した。
カプリ島。ここにはジェレミーの別荘がある。撮影現場でラング監督とはやはりうまくいかないジェレミーは、カミーユに、別荘へ戻ろうと言う。カミー ユはポールを一瞥するが、ポールは、カミーユがジェレミーと別荘に帰ることを軽く承諾した。ポールは、それよりも、ラング監督との映画『オデュッセイア』 の問題について議論をつづけたいのだ。
遅れて別荘に着いたポールは、カミーユに、あの日ポールに言い放った「軽蔑」ということばの真意を問いただす。答えはなかった。
翌朝、ポールに手紙が届く。そのカミーユからの手紙には、ジェレミーとローマへ発つと書かれていた。おなじころ、ハイウェイで派手な衝突事故が起き ていた。大型車にぶつかり大破したスポーツカーには、血まみれの男女の死体があった。ジェレミーとカミーユの変わり果てた姿であった。』 (ウィキペディアより抜粋)

なんでこの映画がそんなによかったのかというとそれは男女の愛の問題についての話で、自己投影しやすい主題であることだろう。ゴダールはこの映画を自身の妻との関係に悩んだ事を理由に作ったと言われている。
良く「恋愛も芸の肥やし」とか言うけど実生活で「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナと結婚して、そこは色々あったのかも知れないけど、それでうまくいかないからといってブリジット・バルドー主演で映画を作ってしまうなんて何て贅沢なおっさんなんだと思ってしまうが、ゴダール自身を投影した主人公の脚本家ポールの、何とも煮えきらないみっともなさが私自身の恋愛経験と少し一致するところがある。結局女の心変わりに決定的な理由なんてものは無く、どんなに納得いかなくてやり直そうと努力しても無理なものは無理であるという現実を痛感させられる。私は恋愛については非常に未練がましいタイプで、いつまでも相手との関係を美化したがる処があるのだが、そんなセンチメンタルな想いなど全く関係なく進んで行く女性の性質をこれからは受け入れて行けそうな気がする。丁度そんなタイミングでこの映画を観たのかも知れない。

しかし物語の中でとはいえ、ラストシーンで妻を奪ったアメリカ人の映画プロデューサーと妻を交通事故で殺してしまうところあたりは、ゴダールも人間味があり、なかなかやるねぇ、と思わずにはいられなかったです。

ゴダールにしては解り易いストーリーながら何度も観てみたい作品であると感じる理由は、ロケ地チネチッタの美しい海と強い日差し、ギリシャ神話「オデュッセイア」と関係ありそうな彫刻を映した映像等が、私の無意識を強く刺激しているからなのかも知れません。

ブリジット・バルドーのお尻が見れたからという訳ではないですよ。(嘘)ではまた。